当社の歴史

代表取締役/三谷佳之による当社の歴史

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〜1999年

■1987年

早くからパソコン通信を経験していたボクは「これからはネットワークの時代だ。音楽とネットワークの会社を作ろう!」と、それまで勤めていた会社を脱サラ。大きな期待を胸に会社設立。小さな子供を2人も抱えての独立。あの頃は若かったなぁ(笑)。お金はなくても夢があれば楽しかった日々。

最初に手がけたのは国内初…つまり、世界初なんですが、パソコン用音源ボード(FM音源)にシーケンサー(音楽ソフトウェア)を付けた…今で言うDTMパッケージソフトの原型のような商品「MIDI MICRO MUSIC」を開発、販売。何から何まで本当に手作りの商品でした。これ1本で食べていけるほどは売れませんでしたが、注文が1本入るだけで心が躍りましたねぇ。

■1988年

日本ソフトバンク(当時は日本と付いていた)社と一緒に日本初のコンピュータミュージック(この頃はDTMという言葉はなく、こう呼んでいた。DTM=デスクトップミュージックはローランド株式会社の造語)とパソコン通信(もちろんインターネットなんて言葉もなかった時代)を組み合わせた雑誌「Tele-Com-Music」の企画、執筆、編集を担当。

同誌は2号目から「コンピュータサウンド」という名称になった。12年後の無料雑誌の創刊の原型はここにあったのかもしれない(苦笑)。そういえば、昔から書くことは好きだったしなぁ。電話代を気にしながら海外のネットワークサービスにアクセスしていたなぁ。見知らぬアメリカ人とのチャットに新しいネットワークの時代を感じていた日々。

■1989年

当時はMS-DOSの全盛期。先の「MIDI MICRO MUSIC」はハードウェアを含むシステムだったので、大きく出るには資金が必要だった。貧乏会社の当社には資金がなく、ソフトウェアならなんとかなると思い、ソフトウェア部分の改善を重ね、NEC社のPCシリーズ向けの音楽ソフトウェア「MICRO MUSICIAN」を開発。

売れましたねぇ(笑)。当時はディスク1枚とマニュアルで5万円くらいで売れましたから、小さなソフトハウスにとっちゃホクホクです。店頭では赤いパッケージが目を引き、売れるソフトウェアはパッケージが赤いという都市伝説(笑)に従い、当社のパッケージカラーは赤(印刷業界的には金赤と言う)に統一。以降、当社の基本カラーは原色と黒ということになりました(笑)。


■1990年

「MICRO MUSICIAN」のバージョンアップを進めていた時期。バージョンアップ(ビジネス)の旨さを満喫していた時期ですねぇ。バージョンアップにはきれいな化粧箱も要らず、ディスクとマニュアルだけで数万円をいただけるので、そりゃもうウハウハな時期でした(笑)。

評判を聞きつけた大手企業からOEM開発の打診も数多くありました。結局、河合楽器の「Sound PaLette」とヤマハの「Hello! Music!」のDTMパッケージのソフトウェア部分を開発。OEMを含めて、「MICRO MUSICIAN」シリーズが市場で結構なシェアを占めていた時期です。

■1991年

自社版を含め、数バージョンの「MICRO MUSICIAN」やMS-DOS版の波形編集ソフト「MICRO RECORDER」やカラオケソフト「MICRO JUKEBOX」、数値編集型のシーケンサー「EXPERT」、「EXTENDER」などを次々に開発。忙しかった。

OEMでは大手企業の厳しい品質管理の洗礼を受け、プログラムの開発そのものよりも(プログラムのミスを取り除く)デバック作業の大切さを経験。このことがその後の通信カラオケのプログラム開発に役立った。逆に、MS-DOS版のプログラムの改善に没頭するあまり、その後のMS-WINDOWS路線には乗り遅れることになる。それが結果的に良かったのか、悪かったのかはわからないけどね(苦笑)。

■1992年

日本電気(NEC/PC-VAN)社と共同で日本初のパソコン通信を経由したMIDIデータの販売を開始。これまでパソコン通信サービスにはデータの販売システムがなく、利用は文字による通信がメインだったが、日本電気がデータの販売システムを完成。同社と共同で音楽データ(MIDI)を発売することになった。

当時は、まだJASRAC(日本音楽著作権協会)でも料金徴収体制ができておらず、実験的な要素を含みながらのスタートとなった。この頃は結構、新聞や雑誌に社名が登場していました。ま、いわゆる業界系ですけどね(苦笑)。

■1993年

「MICRO MUSICIAN」シリーズの開発がメインの年。パソコンの市場には当時の世界標準だったIBM互換機に準拠したDOS/V機が出回り、それと共に海外の音楽ソフトウェアが紹介され出した。市場のメインはMS-DOSだが、MS-WINDOWSへの期待感が高くなった。

当社は自社やOEM版の「MICRO MUSICIAN」の改善に忙しく、MS-WINDOWSの動きは横目で見るだけに留まった。当時のMS-WINDOWSはまともに動かず、いつ使いものになるかは大きな疑問だった。忙しいのとバグの多さが、MS-WINDOWS版への対応を鈍らす原因となった。

■1994年

相変わらず、「MICRO MUSICIAN」シリーズの開発がメインだったが、市場ではMS-WINDOWSが流行り出していた。今さらMS-WINDOWSを勉強しても海外のソフトハウスからは周回遅れになってしまうので、ソフトウェア・ビジネスのスピードに追い付かないと思い、MS-DOS版は自社開発で行い、MS-WINDOWS版の音楽ソフトウェアは海外のソフトハウスから輸入したり、ローカライズすることになった。

「THE JAMMER」、「SOUND FORGE」、「POWER TRACKS」などを輸入し、ピアノレッスン用のソフトウェアは日本語にローカライズし、「ピアノレッスン」という名称で発売(販売は別会社が担当)。

■1995年

主力商品だった「MICRO MUSICIAN」が徐々に勢いをなくしてきた。その分、他の自社開発のソフトウェアや輸入ソフトウェアが補完した。この時期にはソフトハウスというこれまでの看板に、パソコン通信を使ったコンテンツ開発という名前が追加されてきた。

主な取引先も音楽関係だけでなく、パソコン通信の大手企業が並び、まさにミュージックとネットワークの社名が現実になり始めた時期である。

■1996年

パソコン通信を経由してダウンロードしたMIDIデータを専用のソフトウェアで再生(演奏)するプログラムを開発。ヤマハ株式会社の「通信歌楽」や株式会社コルグの「Music Navigator」などのパソコン通信を利用したカラオケサービスの共同開発や運営を行ってきた。

ミュージックとネットワークの会社ということが益々現実化。パソコン通信の絡みで早くからインターネット時代の到来を確信していた。この頃になると「MICRO MUSICIAN」などの音楽ソフトウェアの開発という側面とネットワーク上でのコンテンツ開発の2つの顔を持つ会社になってきた。

■1997年

当時は、まだ黎明期だったインターネットを活用した世界初のインターネットブラウザ搭載のカラオケソフト「カラオケキング」を開発。他の企業との共同開発も積極的に進めていた。

インターネット上でMIDIデータを販売するサイト「MIDILINK」やMIDIに関する情報をメールマガジンで配信する「VELOCITY」などのサービスをいち早くスタート。WebTVネットワークス社と共同でTVでインターネットカラオケが楽しめる「カラオケTV」を開発したり、業界団体のホームページの設計や運営なども手がけた。

創業期のメイン事業だったシーケンサー系の音楽ソフトウェアの開発からはすっかり離れてしまった時期である。

■1998年

これまた業界初の、バンドスコアや教則ビデオなどのオンラインショップ「BANDSCORE.COM」のサービスを開始。昨年サービスを始めた「カラオケキング」はほとんどのパソコンにプレ・インストールされた。

この頃、店頭公開(当時は今のように上場は簡単じゃなかった)をしないかとベンチャー・キャピタルが来ていた。責任が増えるだけで創業者が会社の全株を売ることはできないと言われて断念。他人の金でギャンブル(ま、会社ですけどね/笑)するとロクなことはないと自戒(笑)。

リクルートと一緒に無料版の「カラオケキング」のサービスを始める。「コンテンツは無料」ということのすごさを身を持って感じたことが、後の無料雑誌のヒントになったと思う。

■1999年

携帯電話の着信メロディーが流行り、メロディーの入力データを掲載した書籍がベストセラーになる。インターネットなら1曲単位で、しかもスピーディーに提供できるやん!ということで、インターネットで着信メロディーのデータを販売するサイト「楽ちん!着メロッ」のサービスを開始。

当然、当時はダウンロードなんてことはできなかったので(単音しか出なかった時代)、譜面の読めるスタッフを雇って、機種ごとに人海戦術でデータを制作していました(笑)。野村総研や郵政省など、大手企業から電子マネーの実践や実験参加の要請を数多く受けていたのはこの頃かなぁ。

〜2009年

■2000年

世間はミレニアムとかで、「インターネットは素晴らしい」の大合唱。「人が右向きゃ、わしゃ左」のボクはバーチャル・リアリティーの利便性や情報伝達の速さのメリットを認めつつ、実態のある「紙のメディア」の素晴らしさを主張し、印刷業界から大いに喜ばれる(笑)。いくつかの講演会に呼ばれ、講演料をもらって話すということに目覚める(笑)。

この年、オンライン・ビジネスだけでなく、オフライン=出版事業に参入。デジタルミュージック関連のコンテンツを満載した雑誌「DIGITAL MUSIC MAGAZINE」をパソコン販売店や楽器店、専門学校で無料配布するという新しい発想の無料雑誌を創刊。業界からは無理だ、無茶だと冷ややかな視線を浴びつつ、読者からは「すげぇ雑誌」として注目される。

■2001年

関係者にインパクトを与えた無料雑誌「DIGITAL MUSIC MAGAZINE」のコンテンツを整理する意味で、2つの雑誌に分離した。

1つはコンピュータ・ミュージック関連に焦点を当てた「MusicPC」、もう1つはデジタル・レコーディング関連に焦点を当てた「DiGiRECO」だ。毎月2誌の無料雑誌を出版したり、読者向けのセミナーを企画したり、てんやわんやの毎日。貧乏暇ナシだ(笑)。この数年間、音楽ソフトウェアの開発から離れていた当社だが、今度はメディア側の立場で関わることになった。これも何かのご縁だろうなぁ。

それにしても、技術開発は日進月歩。この数年のブランクは大きく、当時は無理だったことが今や当たり前ということも少なくない。

■2002年

楽器業界初の無料雑誌「MusicPC」と「DiGiRECO」がいろんなところで認知され出した。もはや無理だ、無茶だと言われたことは過去になったが、赤字体質は変わらない。

人気と経営のギャップを感じた時期。調子に乗って、デジタルミュージック関連の雑誌に留まらず、今度は業界初のダンス・ミュージック・クリエイターのためのお勉強雑誌「FREAQ」を創刊。イベント・スケジュールと機材の勉強ができるクラブ族御用達のバイブルになるはずだったが、時期尚早なのか、もともと無茶な企画だったのか(笑)、実験的に1号発行しただけであえなく沈没。着手も早いが撤退も素早い(笑)。情報収集のために夜な夜な都内のクラブを徘徊し、朝帰りもしばしば…。

■2003年

無料雑誌の出版が軌道に乗ってきた時期。オンライン・ビジネスとオフラインのバランスもイイ感じ。バーチャルの次はリアルな紙のメディアだ!と雑誌を発行し、次は無機質なメディアだけではなく、人と人が触れ合うライブだ!という大義名分で、往年のハードロックの名曲をプロ・ミュージシャンが演奏するライブ「ProXYZ」を開催する。公私混同(笑)。

他にも「DiGiRECO」誌もデジタル系(打ち込み)バンド/ユニットのライブ「ElecTrick」を開催。実験を含め、数々のイベントを開催した1年だった。HARD-N-HEAVYは完全に社長の趣味。ライブハウスでただただハードロックやヘヴィメタルのCDを爆音で聴くというイベント(笑)。

■2004年

コンピュータ・ミュージックの技術革新は目覚しく、2誌を別途に発行する意味合いが薄れてきたために統合を決定。「MusicPC」を「DiGiRECO」誌が吸収した。

「ProXYZ」や「ElecTrick」などのライブも好評で、確実に支持者が増えてきたって感じ。残念ながら年末に「ProXYZ」は休止したが、各方面から早期の復活が望まれている。オンライン、出版、セミナー、ライブ…といくつかのビジネス分野に着手しつつも、「音楽とネットワークの会社」という基本コンセプトを忘れずにこれからも活動したい。我々は(ハード)ロックバンドである!という社風と「未常識」を合言葉に…。

■2005年

昨年末に休止した、プロが真面目にコピーをするライブ「ProXYZ」は再開の声も高く、4ヶ月の沈黙を破り、偶数月に開催することになった。あとで振り返ると…出版ビジネスとライブの開催で忙しくしていた1年だったと思う。

■2006年

年初から初夏までは今まで通りの出版ビジネスとライブ主催で忙しくしていたが、初秋を前に地上波初のヘヴィメタルの音楽番組「HEAVYMETAL.TV」を制作・放送することが決まり、それに伴ってレコード会社とのコンタクトや来日アーティストの取材などで忙しくなった。深夜3時からの放送にもかかわらず、0.5%という高視聴率を得て、惜しまれつつ、2クール(半年)の放送期間を終えた。

テレビ番組の制作と同時進行で、ギタリスト向けの新雑誌 「ElectricGuitar」を創刊。デジタル楽器やレコーディング分野の 「DiGiRECO」とギタリスト全般向けの「ElectricGuitar」の2誌体制になった。ライブイベントに関しては年末をもって、長い間開催してきた誌面連動イベントの「ElecTrick」や「ProXYZ」を休眠。

趣味が高じて結成したバンド 「BLOOD SABBATH」を秋から本格始動させた。今後はライブの主催者から出演者に…ということか(苦笑)。

■2007年

今年の抱負は…会社創立21年目に入り、もっと会社として、しっかりしないといけないと感じる今日この頃。変にしっかりしちゃうと、「つまんない会社になってしまうんじゃないか?」という恐れもあるが、人間いつまでも若くはないので、そろそろ会社として、きちんとした形に仕上げないとね(笑)。

趣味が高じてBLACK SABBATHの功績を世に広める販促バンド「BLOOD SABBATH」を結成。何度かのメンバー・チェンジを経て、実力派で固まる。そこでトニー・アイオミ役としてギターを担当する。数十年ぶりのバンド活動にもかかわらず、公私混同+職権濫用を掲げて、いきなり毎月、ロックの殿堂/目黒鹿鳴館でライブを強行。はい、毎月です(笑)。

10月には、そのBLACK SABBATHのトニー・アイオミ氏がHEAVEN AND HELLとして来日すると聞くや否や、記者会見に堂々と彼の扮装(コスプレ)で出席し、固く握手する。マニアックなコスプレに当の本人は照れ笑い、他のメンバーは隠れ笑いしていた。彼らの前でBLOOD SABBATHの名前が正式に披露された(笑)。

■2008年

秋からリーマン・ショックの影響か、楽器業界にも不況の風が吹いてきた。広告収入だけで運営する雑誌ながら、その広告収入に陰りが出始める。ギタリストを対象にしたDAW環境が増えてきたので、2誌の違いを出し切れず、年末の12月号をもって「ElectricGuitar」を「DiGiRECO」と合併させることになった。それから2年後。また復活させることになろうとは…未来は見えないもんです(苦笑)。

BLOOD SABBATHは毎月、定期的にライブを開催し、本業はどっちですか…と冷やかされる年だった。2月に元ANTHRAXのボーカリスト、ニール・タービン率いるDEATHRIDERSの面々が来日。数箇所のライブハウスで共演する。5月には彼らを頼って渡米し、LAでライブを敢行。BLACK SABBATHの代表曲「War Pigs」の歌詞を書いたギター・ケースを持って空港のロビーに立っているだけで、何人にも「キミはBLACK SABBATHのトリビュート・バンドか?」と声をかけられる。海外では、BLACK SABBATHは定番中の定番という人気バンドであることを痛感。もっと日本でも頑張らないとあかん…。

■2009年

昨年秋〜末にかけての不景気の風は当社にも吹いてきた(涙)。少人数の会社にもかかわらず、大きな事務所にいるのは家賃もさることながら、冷暖房費や何よりもコミュニケーションがうまく取れない。そこで、長年住んだ事務所から駅前の身の丈に合ったサイズのオフィスに引っ越した。オフィスは手狭になったが、立地が良いので環境が抜群になった。駅に近いので、街に活気がある。やる気の出る事務所ってのは良いねー。

初夏から自分でギターの改造を始めた。パーツ交換から始まり、最後は2本のSGのインレイを十字架にしてしまった。トニー・アイオミ氏のSGの写真から十字架を抜き出して、白蝶貝を切り出すこと5セット分。ようやく納得のできる十字架ができたので、知り合いのギター工房の師匠に教えてもらいながら作業を進めた。遊びのようで仕事にもつながる作業。

2月にオーストラリアのメタルバンド、the ETERNALが来日。当社の事務所に1週間寝泊りすることになる。数箇所のライブハウスで共演し、これが機会となり、彼らの音源を国内で販売するレーベルを立ち上げることになる。縁とは誠に不思議なものである。

〜2020年

■2010年

新年早々、NAMM SHOW視察のためにLAに行く。元ANTHRAXのボーカリスト、ニール・タービン率いるDEATHRIDERSの面々と再会。ギタリストのマイク・ゲレロの誕生日パーティーでBLACK SABBATHの楽曲を何曲か演奏するが、住環境の違いに驚く。深夜1時でもドラムは叩くわ、アンプからはギンギンに音を出すわ…でも、誰も苦情を言わない。それどころか、ビール片手にのぞきに来る国民性には驚く。気候も好きだし、この際、移住するか(笑)。

4月から24年目に突入するので、今までとは少し違ったビジネス分野にもチャレンジしていこうと思う。「メディア」と「レーベル」と「EC」が当面の3大プロジェクトである。若者や後進を育てる目的で「三谷塾」を開講。毎月ライブハウス「SANCTUARY」に集まり、コミュニティーを作らんとする。

■2011年

海外のヘヴィメタル・バンドをターゲットにしたSTAY METAL RECORDSと日本国内のヘヴィメタル・バンドをターゲットにしたPARANOID RECORDSという念願のメタル系レーベルを立ち上げ、2010年に5枚、2011年に1枚のアルバムをリリースする。

STAY METAL RECORDS所属のオーストラリア産ダーク/ゴシック・メタル・バンドのthe ETERNALは3月にニュー・アルバムを引っ提げての来日公演を予定していたが、東日本大震災と原発事故による影響を考慮して、来日を断念。BLOOD SABBATHの福島遠征ライブも3月19日に予定されていたが、延期となる。このライブは8月29日に開催されるが、このライブでの体験が元となり、メタラーなりの復興支援ということで、「東京&福島へヴィメタル・サミット」の構想が出来上がる。

また、株式会社ヤマハミュージックメディア発行という形で、有料書籍の企画/制作を開始。無料誌と有料書籍の両輪体制が整う。11月11日午前11時11分にはBLACK SABBATHが再結成、ニュー・アルバムの制作とワールド・ツアーを発表する。12月17日にはオジー・オズボーンのドキュメンタリー映画「オジー降臨」が渋谷シアターNにて公開。その公開を記念して、ESPミュージカルアカデミーの本館ホールにて映画のプレビュー&ライブを行った。

2011年は大震災とその後の放射能汚染問題で、ボクだけでなく、会社や社会全体、世界が変化することになったと思う。来年以降はわからないが、2011年という年はいろいろな意味で転換/分岐の年になったと思う。

■2012年

昨年から始めた有料書籍(株式会社ヤマハミュージックメディア刊)の企画/制作に注力し、何冊か発売した。意外なところでは、古くからの知り合いの「制服向上委員会」の橋本美香さんの自伝本も手がけた。彼女と制服向上委員会は原発反対の発言や楽曲の発表で、一時メディアに引っ張りダコになりました。

11月には自社ブランドで有料書籍の発行をすることになりました。第1弾はエフェクターの老舗ブランドBOSSの協力を得て、「BOSS COMPACT EFFECTOR BOOK(通称、赤本)」を発売。初めての自社商品にもかかわらず、結構なヒット作となり、有料書籍の出版社としてのデビュー戦はまずまずの船出となりました。

ヘヴィメタル好きが高じて…ヘヴィメタルで福島を熱く支援するイベント「東京&福島ヘヴィメタル・サミット」は3ヶ月ごとに年4回開催しました。その一方で、津波被害と被曝被害による復興の差は大きく、実は甚大な被害にもかかわらず、目に見えない被曝という実態をメディアがどう報道し、国民や福島県民がどう感じるべきなのか…国の意識を超えて、人類というレベルで考えるべきかもしれない課題ではないか…思考の出口がなかなか見つからない。

「いろんなエフェクターを集めた展示&試奏会をやってみたい!」と思い、「エフェクターの祭典…EffectorのEXPOだからEffEXPO(エフェクスポ)や!」…と、「やや発音しにくいイベントを立ち上げたい」とESPミュージカルアカデミーに打診すると快諾、9月に開催となった。1日で約1,000人の動員があり、大盛況。

秋にはBLOOD SABBATHのメンバー交代があり、新しいシンガーとしてオーストラリア人を起用。同じ頃、直訳ロッカーで一世を風靡した「王様」とBLOOD SABBATHで「コラボCDを作ろう!」という話が持ち上がり、レコーディングの準備に入る。

■2013年

年末年始は王様+BLOOD SABBATHのコラボCD「黒い安息日伝説」のレコーディングに明け暮れる傍らで、自社ブランドでの単行本を次々に発行。無料雑誌と有料書籍の両方で攻める出版社として本格的に稼働し始めた。

ボクのせいで(苦笑)レコーディングが遅れ、3月に発売する予定だったアルバム「黒い安息日伝説」が2ヶ月遅れの、5月29日に発売となった。代表曲「War Pigs(戦争豚)」の本格的なプロモーション・ビデオを撮影し、シンクロ権の許諾にあたっては本家BLACK SABBATH側からの要望として、曲名は英語の題名を前に入れるように要請を受けた。来日に際してプロモーションになると判断したそうで、ン十万円を覚悟していた利用料金を無償にしてもらえた。そのプロモーション・ビデオはみるみる試聴回数が上がり、アルバムの売れ行きも流通会社が驚くほど…ウッシッシ。お陰様で、当初の予算を倍以上オーバーした制作費を取り戻すことができました。

3月、王様+BLOOD SABBATHのレコ発ツアーとして福島の2ヶ所でライブを敢行しましたが、「東京&福島ヘヴィメタル・サミット」はタイミングが合わず、年末に1回、福島のメタルバンドを中心に開催するに留まった。7月25日、ボクの誕生日にライブをしてもらいました。こんなの初めて…嬉。アメリカからギタリストの友人も駆けつけてくれ、一緒にステージで暴れました。彼は2週間近く東京に滞在し、その半分を一緒に過ごしました。楽しかったなぁ。

昨年盛況だった「エフェクターの祭典 EffEXPO」は、今年は10月26〜27日の2日間の開催となりました。12月には高等学校軽音楽部向けのフリー・マガジン「DiGiRECO.JR(デジレコ・ジュニア)」を創刊しました。

■2014年

従来のビジネスと昨年立ち上げた新規ビジネスを整理し、強化するために奔走。テーマは「選択」と「集中」。言い換えると、「断捨離」です。これからの10年のために、ともすると多岐に広がりがちなビジネスを「取捨選択」することで会社のリソースを有効活用することを意識する元年、と位置付ける。

■2015年

ビジネスドメインを高等学校の軽音楽部にシフト。季刊誌だったDiGiRECO.JR誌を隔月発行にし、誌面を本格的にリニューアル。音楽専門学校と協力し合って、全国各地で積極的に高等学校を訪問、バンドクリニックや講習会を開催。

第3回全国高等学校軽音楽コンテストの大会プログラムの制作を引き受ける。これが後の各地の大会プログラムの制作につながる。

■2016年

昨年度に引き続き、ビジネスドメインを高等学校の軽音楽部にフォーカスした活動を継続。

DiGiRECO.JRの発行は順調に進み、軽音楽部に浸透していく。大会のプログラムを制作する都府県が増えていく。部活動の中心は顧問の先生であると感じ、顧問向けの機関誌「顧問通信」を創刊。

また、音響機器の知識を得たいという声が多く、PA BOOKを創刊。全国の顧問から好評を受ける。夏の音楽合宿に着目。長野県の北志賀の合宿ホテルを訪問。音楽合宿の実情を体感する。

■2017年

DiGiRECO.JRと顧問通信の発行は順調に推移。大会のプログラムも過半数の都府県で採用。昨年度のPA BOOKの好評を受けて、本年度は照明も取り入れて、音響&照明BOOKを発行。さらに、ドラム全般の知識がないということで、DRUM BOOKを創刊。

高等学校に向けて夏の音楽合宿の斡旋を始める。宿泊先のホテルでバンドクリニックを開催する。第5回全国高等学校軽音楽コンテストでは大会の進行、音響、照明などを一手に引き受ける。

また、高等学校軽音楽連盟のない大都市=名古屋で、愛知県高等学校軽音楽コンテストを実行委員会主催の形式で立ち上げ、実行委員長に就任。

■2018年

ビジネスドメインをさらに軽音楽部に集中させるために、18年の歴史のあった紙メディアのDiGiRECOを休刊。ウェブ版に移行することにした。

高等学校の軽音楽部向けのDiGiRECO.JR誌を読んだ層が大学生になることから、大学の軽音サークルに向けた「DiGiRECO.SR(デジレコ・シニア)」を創刊。千葉県白子町の音楽合宿ホテルにスタジオやホールの楽器や機材を選定、設置。機材標準化の第一歩を踏み出した。軽音楽部の支援をさらに推進するために特定非営利活動法人…NPO法人化することにした。

6月に全国学校軽音楽部協会を設立。理事長に就任。各地の軽音楽連盟の設立に関してアドバイスを始める。愛知県で高等学校軽音楽連盟設立集会を開催。10数校の参加の中、軽音楽部のあり方、連盟の意義などを問題提起。

■2019年

株式会社ミュージックネットワークよりもNPO法人全国学校軽音楽部協会の顔として活動した1年だった。全国学校軽音楽部協会…軽音協の設立1周年記念行事として、第1回顧問集会を開催(6月)。協会の活動実績の報告や軽音楽部の大会における審査の統一基準(案)を発表。

また、協会主催の大会として、昨年度から開催している愛知県大会の他に、中部大会と近畿北陸大会を立ち上げました。特に近畿北陸大会は京都府舞鶴市との共催として、音楽による町興しを考える自治体との協業の第一歩となり、次年度も継続することが決定。

また、文化庁や日本部活動学会との繋がりを持ち、情報交換を通して交流を深めることができた。2020年は株式会社ミュージックネットワークの仕事の比率を高めていきたい。

■2020年

1年を通して、新型コロナウイルスの感染拡大という未曾有の事態を経験。年が明けて、2021年になってもまだ猛威は衰えず、2020年4月に続き、2回目の緊急事態宣言が発布されるかもしれないという状況。

新型コロナの影響をもろに受けた音楽業界/楽器業界の景気は急減速。東京オリンピックは延期になり、隔年開催の楽器フェアもオンラインで開催された。ビデオ会議システムを使った会議が当たり前になり(リモート会議)、まさに世の中が一変。

ここ数年はコロナのある時代…ウィズコロナ(ニュー・ノーマルなどと言われ始める)として活動を考えないといけないと思う。ダーウィンの進化論。まさに変化に対応することを余儀なくされる時代となった。

全国学校軽音楽部協会Twitter

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