ヘッドフォンのプロが語る、ヘッドフォンの過去〜未来。その2.ハイレゾと「MDR-CD900ST」。そして「MDR-M1ST」とは

音楽業界のデファクト・スタンダードとして30年以上に渡って愛され続けているソニーの「MDR-CD900ST」。その伝説を受け継ぎ、ハイレゾが求められる現代の音楽制作環境に合わせて進化を遂げたのが「MDR-M1ST」です。

前回に引き続き、MDR-CD900ST」の生みの親(開発者)でありヘッドフォンを知り尽くすプロフェッショナル。ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ株式会社 V&S事業本部のシニア音響アーキテクト投野耕治氏のロングインタビューをお送りします。今回はハイレゾの制作環境に対応すべく生み出された「MDR-M1ST」とはどのようなヘッドフォンなのか。そして年々重要性を増す「IER-M9」などインイヤー・モニターについて語って頂きました。


「MDR-CD900ST」をはじめ、これまで数々のヘッドフォン・イヤフォンを手がけてきた投野耕治氏

編集部すでに「MDR-CD900ST」という定番モニターがある中で、「MDR-M1ST」の開発がスタートしたきっかけは何だったんでしょうか?

投野MDR-CD900ST」は、ちょうどレコーディングがアナログからデジタルへと変わっていく転換期に登場したモデルです。前回も触れた通り、アナログの時代、レコードやテープの最終的な再生音はSN比も高くはなかったですし、再生できる音の限界があった訳です。狭い帯域の中で音楽が楽しめるように、それを基準としたレコーディングやミックスが行われていました。

しかしCDが登場し、レコーディング自体がデジタル化したことで状況は大きく変化しました。ノイズも劇的に減って再生できる低域の制限もなくなり、作曲家はそれまでより低い帯域でベースを鳴らすようになり、音楽全体のレンジが広がりました。少し話しが逸れますが、周波数レンジの拡大は今現在も続いており一部のジャンルでは超低域が重要なファクターになっていたりもします。我々エンジニアも、その表現をより鮮明に再生できるように常に開発を続けています。

アナログからデジタルへの転換期には、録音再生される音も大きく変化していて、モニター・ヘッドフォンの再生能力によっては、適切な音調整が難しいこともありました。そんな時代の中で、900STが一つの指標、リファレンスになったのだと思います。

ですが「MDR-CD900ST」の登場から30年間。その間も録音技術や音楽シーンは常に進化や変化を続けています。ハイレゾの登場でより微細な表現も求められるようになりました。そんな中で、そういった現代の制作環境をカバーするヘッドフォンがそろそろ必要じゃないか? という議論が持ち上がったんです。

編集部:「MDR-CD900ST」と同じく、時代の変化の必然の中で生まれたということですね。

投野はい。これからの20年を作る音は、これとは違うのではないかという必然の中で生まれたというか。私個人としては、後輩エンジニアに新たなスタンダードを作って欲しいという気持ちもあり、それが実を結んだのが「MDR-M1ST」です。


「MDR-M1ST」の第一印象と現場からの評価。ハイレゾ時代の900ST

モニター・ヘッドフォン「MDR-M1ST」 希望小売価格(税抜):31,500

編集部:「MDR-M1ST」は後輩エンジニアが手がけられたということですが、初めて音を聞いたときにどのように感じましたか?

投野MDR-M1ST」の開発の目的の1つがハイレゾへの対応でした。そういう意味での対応する音のレンジの表現では900STよりも広い。新しい時代を担う音になっているな、というのが第一印象でした。特に感じたのが歪感のなさですね。例えばボーカルを大きな音で再生してもうるさくなる要素がないのも印象的でしたね。担当者本人には言いませんでしたけど(笑)。

編集部:音作りに関して、どのようなアドバイスをされたのでしょうか?
投野一切していません。試聴はさせてもらいましたが、音について指示を出したことはありません。音作りというのは、その人の感性をギリギリまで突き詰めていくものだと思っていますので、上司部下といった立場や誰かに何かを言われて作るものではないというのが私の考えです。エンジニアとして接するときには、上司部下ではなくあくまで先輩後輩の関係というか。指導的になりたくなかったので、「君が最善と思う音を追求しなさい」と伝えていました。ただし、音作りのパートナーであるスタジオの技術者の方々とは、大いに意見交換をしてもらっています。

編集部:ハイレゾ対応のモデルは、具体的にどのような違いがあるのでしょうか。
投野物理的なファクターとしては低域から高域までの再生能力ですね。最高音域まで帯域が伸びていて、それがしっかり耳に届くかどうか。そしてハイレゾの魅力である臨場感や息づかいが、しっかり再現できているかを帯域ごとに緻密にチェックしながら作業していきます。

編集部少し聞きにくい質問ですが、ハイレゾ時代において、「MDR-CD900ST」はモニター・ヘッドフォンとして役不足なのでしょうか?

投野ハイレゾ表現ができる部分もあれば、足りない部分もあると思います。そういう意味で言えば、ハイレゾのフルスペックを再現するには、帯域の広さ等の面で不足している部分があるのが正直なところですね。そしてそれを実現したのが、「MDR-M1ST」です。

ですが、これは必ずしも善し悪しとは別の話でもあります。音楽は必ずしもハイレゾで広帯域の音が最高か? というとそうではない場合もあります。時代時代の音であったり、テイストによって求められるサウンドは異なってきます。より新しいハイレゾ的な音を求める方には、「MDR-M1ST」を使っていただくと良いと思いますが、これからも「MDR-CD900ST」が求められるシーンはあるでしょう。ソニー・ミュージックスタジオでは現在、900STM1STの両方を用意していて、アーティストの好きな方を使って頂けるようにしています。

編集部:「MDR-M1ST」は、現場での反響はどうでしょうか。

投野おかげさまでご好評を頂いています。リファレンスが変わってしまうことが怖いという声もありましたが、これは使われる方が「MDR-M1ST」の経験値を積んでいくことで、次第に補正が行われていくものだと思います。

そもそもレコーディング・スタジオでは最終的なミックスダウンをヘッドフォンで行うということは、あまり行われません。あくまで音決めはラージスピーカーで行い、ヘッドフォンは演奏者用のモニターやサブ・システムとして扱うことが多いでしょう。スタジオ外での録音の場合などは、ヘッドフォンが頼りにされています。その中で「このヘッドフォンでこう聴こえれば、ラージスピーカーではこう聴こえるだろう」という基準となるのがモニター・ヘッドフォンの役割です。ですから「MDR-CD900ST」でちょうど良かったものを、同じ尺度で「MDR-M1ST」を聴いてしまうと混乱してしまうでしょう。そこは「MDR-M1ST」の基準と補正の経験を積んでいくしかない部分ですね。

マイクや楽器を選ぶのと同じように、道具の特性を知って使いこなして欲しいと考えています。

編集部:ちなみに、今改めて「MDR-CD900ST」をいじれるとしたら、変更したい部分はありますか?

投野:それはまったくありませんね。今改めて考えてみても、エンジニアとして当時できたベストな音だと思っています。

ケーブルは着脱式で、イヤーカップの可動範囲も広くとられています。また本体は一回り大型になり、装着感もかなりしっかりしています


ステージで求められる音を追求した、ステージ・モニター

ソニーがアーティストやPAエンジニアの声を反映して作り上げたステージ・モニター「IER-M9」 実勢価格(税抜):129,880

編集部:スタジオ・モニターだけでなく、インイヤーのステージ・モニターも手がけられていますが、イヤフォンのチューニングはヘッドフォンと違いがあるのでしょうか?

投野音作りについての基本的な考え方はスタジオ・モニターと同じで、音の距離感をしっかり感じられるようにしています。ヘッドバンドとインイヤーで一番違うのは遮音性の部分です。スタジオ・モニターは(マイクへの音漏れを防ぐために)ヘッドフォンの音が外に漏れるのを嫌います。逆に言えば、外の音が中に入ってくることは問題ありません。ですがステージ・モニターは逆です。しっかりとモニターするためには、外の音が入ってくるのをブロックすることが大切です。逆に少し位外に音が漏れようが、まったく問題になりません。

またライブとスタジオ演奏ではアーティストの意識も違いますよね。ライブは広い会場で直接観客と対面しながら演奏しますから、レコーディング時とは表現したい音も変わってくるでしょう。こういった部分を考慮しつつ、現場のプロの声を反映しながら、音作りを詰めていきます。

編集部:インイヤーの音作りも、エンジニアさんと行われているのですか?

投野はい。ソニーミュージックグループと縁のあるPAエンジニアさんと共に音作りをさせて頂いています。こういった各現場のプロユーザーと共に音作りをしているのもソニーの大きな特徴だと思います。

レコーディングやステージのミュージシャンやエンジニアは先ほどお話した通りですが、映画の世界ではソニー・ピクチャーズエンタテインメントのミキシング・ルームであったり、ゲームの世界ではゲーム音楽を作られているクリエイターと共に、各メディアに応じた音作りをしています。またご存じの通りソニーは「ウォークマン」をはじめとしたプレイヤーも力を入れていますから、プレイヤー側がここまでできるなら、ヘッドフォンはこうしたいよね。といった具合に、音楽を聴く環境を制作現場の想いを含めたトータルで考えながら製品を作っています。

編集部:イヤフォンの音作りとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。

投野基本はヘッドフォンと同じです。容積や振動板の重さ、通気量のコントロール等ですね。ただイヤフォンは装着の仕方が違いますから、その辺は考慮します。

ヘッドフォンとイヤフォンの物理的な特性を揃えることはできるのですが、聴いた時に受ける印象は異なるんです。よりインイヤーの方が近い音になりやすいですし、ヘッドフォンの方が広がりが出やすいといった具合です。このバランスの取り方が難しい部分です。例えば5mの大きな絵を10m離れた場所から見るのと、5cmの小さい絵を10cmの距離で見る。画角的にはまったく同じでも、実際に感じる印象や絵のスケール感はまったく違うものになりますよね。

この音のスケール感をいかに調整していくのか。これがポイントですね。

編集部:音の遠近感を調整できる、ということですが、例えば近い音はどうやって作るのでしょうか。
投野:例えば耳に近いところでなっている音と離れている音は、音のバランスが変わって聴こえますよね? それに加えて残響が減ったり…という物理的なパラメーターが変化する訳です。
これを機器側で再現していくのですが、ヘッドフォンの場合は前の部屋を小さくして、ドライバー・ユニットを耳に直結するような音作りをしていきます。例えば、MDR-CD900STのイヤーパッドを外していただくと、中にウレタンで囲まれた小さい部屋が見つかると思います。耳たぶの外を覆うように大きな部屋と、2つの部屋で構成されています。耳乗せ的に小さい容積の部屋を作ることで、より音がダイレクトで近く聴こえるようになるんです。

「IER-M9」と「IER-M7」。小さな筐体に、ステージで求めるサウンドを追求。アーティストの欲しいサウンドを知るソニーのこだわりが詰まったステージ・モニターです。なおリスニングに使ってもバッチリです!


ソニーの特設ホームページ(https://www.sony.jp/feature/products/180905/?s_pid=jp_headphone_IERM9_201809_feature_1)で、「IER-M9」を手がけたエンジニアのインタビューが掲載中です。ぜひ併せてご覧ください!

 

インタビュー連載の最終回となる次回は、リスニング・モデルも含めたヘッドフォンの選び方。そして話題を集めるBluetoothヘッドフォンやノイズキャンセリングヘッドフォンについてのインタビューをお送りします。

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